病に屈す-2


                              帯状疱疹

                           2006年7月10日〜17日 (常滑市民病院)                  

                 

7月6日中央公園 花壇の草取り作業、午後から畑の草取りをした。夕方には自宅横の消火栓ホース格納箱周辺の草取り。 夜になると何かしら目の上が痛い。鏡で見ると赤く腫上がってきている。てっきり虫に刺されたと思い込んでいた。翌7日になっても腫れが引かないので病院へ行く。虫刺され用の塗り薬を貰い帰宅。薬を塗っても全然治る気配がない。こりゃー虫刺されじゃーないかもしれない、と思い10日(月)再度病院へ。
診察の結果「帯状疱疹」である事が判明。即入院となった。前回の時も即入院。今回も同じ事になった。
部屋は4人部屋で五階の東棟、前回より一階上になった。

担当 師長はT子さんで前回お世話になった人。師長さんのご主人は熊工の後輩でまたまたお世話になる事になった。前回非常にお世話になりこの人のお蔭で治療に耐えられたといえるK子さんも同じフロアにおり部屋に顔を出してくれた。こんな格好の再会でなくもっと元気な姿で再会したかったなー。たとえば御岳頂上とかで!!。

四人部屋だったが3日目に二人退院して82歳の万吉じいさんと二人になってしまった。万吉じいさんと話していたらなんと私が借りている畑の隣の地主さんであった。昨年の夏は万吉さんが草刈に来て草刈機のエンジンをかけようとしたが力が弱くエンジンがかからない。そこで私がエンジンをかけてやり草刈の手伝いもした。
その事を話すと「そんな事もあったかなー」と記憶にないようであったが年寄りだから致し方ないかと思う。
万吉さんは話している事はしっかりしていてけしてボケ老人ではない。 こんな老人に大して看護師はボケ老人扱いにする人が多いようで、このおじいちゃんは内心「俺をボケ扱いにしやがって」と怒っていたのではないかと思う。 体の自由が思うようにいかないので何かと看護師がやっていたようだができることは本人にさせるほうが良いのではないか。 ひょっとしたら病院がボケ老人に仕立て上げてしまうのではないかと思ってしまう。 万吉さんは近々別の老人介護施設に移ると言っていたが、これから自分も通る道、考えさせられる老人の入院であった。

退院前日の16日、朝の点滴はベテラン看護師がやってくれたはいいが非常に手荒に針を刺した。さらに針の刺しミスで痛い、痛い事を訴えて刺しなおしてもらい2度目はうまくいった。この看護師は何かいらいらしていたのか滴下の速度もいい加減で速く落としていった。60分の速度だがこれでは30分もかからない。そこで自分で速度を落とし今までの通りくらいの滴下速度にした。 15分後くらいにその看護師が通りかかって病室に入ってきてまた速度を上げてしまった。 今度は自分も触らずにいたが別の若い看護師が来て「早いですねー」と言ってまた遅く設定した。 終了間じかまだ底の方に少し残っている時に問題看護師がやってきて「終わりですねー」と言って外そうとしたので「まだ残っている」といって外させなかった。問題看護師は憮然として出て行ったがこれでこの看護師とは決定的な「破局関係」となってしまった。「まあーいいかどうせ明日は退院だ。」

今度の入院は1週間程度と最初から言われていたので気分的にも楽であった。治療としては1回60分の点滴を1日3回打つだけ。 食欲もあるし美味しく食べれ、単に病院で休養を取ってるだけという気持ちだった。
しかし万吉じいさんの事を考えると将来自分もあんな扱いを受けるのだろうなーと寂しくなった。

                               常滑市民病院
     

病室から見る造成中と現在の中部国際空港

    

                                    空港島 全景

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病室です。自分のベットから撮影

前回入院時お世話になった K子さん

写真で見るときれいだが。

14日の朝食

14日の昼食

13日の夕食

病室から管制塔 光学10倍

前島と空港島 この前島にイオンができる

青空がきれいでした

ベットからだとこうなる

空港島遠景 毎日眺めてる

万吉じいさん

空港島夜景

大韓航空機着陸

着陸機と離陸待ちラッシュ


帯状疱疹とは
ほとんどの人が原因となるウイルスを持っています。帯状疱疹は小さな水ぶくれができる病気「ヘルペス」の一種でウイルスが原因となって起こります。ウイルスが原因と聞くと「うつされた」と思いがちですがほとんどの場合、他人からうつされたものではものでは有りません。原因となるウイルスは子供の頃によくかかる水ぼうそうのウイルスと同じものです。水ぼうそうが治った後もウイルスは体内に潜んでいます。そして何かのきっかけでウイルスに対する抵抗力が落ちてくると、また病気になってしまうのです。これが帯状疱疹です。
                                    (病院で貰ったパンフレットより抜粋)   

今度の場合、精神的、肉体的に疲れ抵抗力が落ちている時といえば心当たりはある。 疲れた事といえば根付竹を切りに行った時、切れ味の悪い鋸で竹の根を掘って切り出すことは本当にしんどい事。少し自重しなければなるまい。
帯状疱疹になったら
医師の指示を守って安静にしていれば自然に治ります。 帯状疱疹は精神的、肉体的に疲れているときに よく出ますのでそれを回復するためにも充分な栄養と睡眠をとるようにしてください。
みずぶくれが破れると細菌感染が起こりやすくなります。細菌による化膿を防ぐ為にも水ぶくれは破らないように注意しましょう。
ほとんどうつることは有りませんが水ぼうそうにかかったことのない人にはうつることが有ります。この場合帯状疱疹としてではなく、水ぼうそうとして症状がでます。したがって小さな子供にはできるだけ接触しないようにしましょう。
帯状疱疹になると最初は痛みますが大抵は皮膚の症状が消えると痛みも取れます。しかしピリピリする焼けるような痛みが続く事もあります。このような場合医師の指導を受け適切な治療を続けましょう。
                                    (病院で貰ったパンフレットより抜粋)

   

      


病に屈す-1

                               急性骨髄性白血病

          2002年5月21日〜2003年3月1日
5月18日 会社の無線クラブの行事「木曽駒移動」で御岳へ登った。今回は私の昔の山仲間、「新日鉄堺山岳部」の4名と14年振りに一緒に登ることになりまた同窓会である。登山中、いつにない激しい疲労感が有りおかしいなーと思いつつも無理して登った。先行していた堺の4名と名古屋の1名は最高峰の剣が峰へ向かったが私は疲労も激しく天候も悪いので後続の4名と共にと大滝頂上で昼食後下山することした。 昼食後、「剣が峰隊」が降りてきたので一緒に下山。

夜、宴会の席ではいつもの元気さが出ないなーと感じつつ部屋での2次会も同じであった。19日夕方帰宅、その日はなんとなく疲れビールも飲まずに寝てしまった。翌20日、熱があり計ってみると39℃。それでも無理して出勤。このがんばりと云うか、無謀と云うか、馬鹿と云うか。

翌21日も熱は下がらず「常滑市民病院」へ行ったところ即入院となってしまった。レントゲン検査の結果高熱の原因は肺炎とわかったが、いろいろ合併症を引き起こしておりなんと血液の癌、「白血病」を抱え込んでいることが骨髄検査の結果判明した。K-1のアンリィフグさえ勝てなかった病気に何で俺が!!。それにしてもわずか1週間の間に天国と地獄の変わりよう。考えてみれば熱が出たために病院へ行きそれで「白血病」がわかったのだから肺炎になって良かったのかもしれない。

 
熱は10日間ほどで平熱になったが肺炎の治療に1ヶ月を要した。
それでも完全には直らず白血病の治療を開始し肺炎の治療と平行しての見切り発車となった。苦痛、苦悩の日々であったが多くの人の励ましを受け 3月 1日 やっと退院することができた。

常滑市民病院
9ヶ月御世話になった常滑市民病院 病室から見る中部国際空港前島の埋め立て  連絡橋 2002.06月

闘 病  生 活  亜鉛の急性骨髄性白血病闘病記
       加     療         症     状    お見舞い、 激励, トピックス

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取りあえずは肺炎の治療をせねばならない。熱は下がったが完全に直りきる前に平行して白血病の治療に入った

6/21 錠剤(ベルイド)服用、1週間服用するも効果が見られず中止。これで効果が有れば最良で有ったのだが残念。
化学治療を受けるか否かの決断をしなければならない。息子も受けるべきだという意見で受けることを決断する。看護婦の大岩さんも「一歩前進したね」と励ましてくれた
7/14〜21(白血球1900)、
1回目抗がん剤投与の加療開始。点滴は3種類を24時間入れっぱなし。本当の闘病が始まる。    8/7  骨髄検査 .良好に進んでいる。
この副作用はすざましい。3日目に薬疹が出るが強行突破、この時の発疹のあとは退院後も残っている。食事は加熱食でこれがまたまずい!!。この食事が食べれるか否かで回復に差が出るだろう。おかずのラップをはがすだけで吐き気をもよおし食べれない。朝はげーげー言い涙を流しながら食べたこともあった。そのうち食事の配膳台車を看護婦がゴトゴト押してくるのが聞こえただけでもう吐き気をもよおす、頭痛、腹痛、で何日も絶食が続く。7/26から3日間38.8度の熱、歯茎が腫れ歯磨きが出来ない。副作用期間が終われば、次の加療まで体調回復期間となり一息つける。この期間が長引けばそれだけ治療が遅れ入院期間が長くなる。


入院翌日、菊信さん、津波さん、甲斐さん、山下百さん、会社の同僚、小牧の実兄が来てくれたが高熱時で有りよく覚えていない。

6/15  ノートパソコン持ち込みmail接続設定。大分の重野さん、広畑の谷川さんはじめYOR各局、光YGR各局の激励 mailをもらい友人に感謝、名古屋は菊信さんが官房長官になり取り仕切って頂いた。
6/17 化学治療が始まる前にと思いYXCクラブ報作成開始、7/12 発行完。

化学治療が始まるまでは気分的にも余裕があり深刻な気分はなかった。
8/10 Win 
XP搭載ノートパソコン買い替え。

A 8/13  2回目の加療始まるが3日目でまたしても薬疹の為中止。14日間の回復期間を空ける事になる。体調は良好、早く加療に入ってもらいたい思い。

8/30〜9/7 (白血球5300) 体制建て直し後加療に入る。
途中で薬疹の為 1日 間を空けるが無事1週間を乗り切る事ができた。体重63Kgが56Kgまで落ちる。9/10クリーンルームに転室、狭いが洗面所が有るのは良い。 9/27 骨髄検査
薬疹対策としてはプレドニンの多量服用が採られた(10錠/Day)。加療が終わったときは本当にやれやれと云う気持ちでぐったりなる。 終了後4日目位から吐き気、頭痛、腹痛、と最悪の状態でテレビを見る気もおきない。
11日より絶食となり点滴による栄養補給となる。絶食は9/25日まで続いた。27日、骨髄検査、28日レントゲンの為、久しぶりに部屋を出る。エアコンの効いてない箇所を通り「これが外の温度か」と夏の季節を感じる。



フィールドデーコンテスト時の宴会、運用の写真を菊信さんからCDでもらう。入院していても菊信さんが常にコンタクトを取り情報提供してくれるので孤独感はない。友人に感謝。
8/15 職場の同僚 小河さんが成田山のお札をもらって来てくれた。有り難いことだ。以後毎日、妻がお札に手を合わせている。
8/24 常滑市の花火大会。空港埋め立ての前島でやるので目の前、ベットの上から観賞。
9/7 寺井さんが夫婦で見舞い、その約2ヶ月後、自身も腸の手術で中央病院へ入院。
B 9/30〜10/5(白血球11200) 3回目、5日間の地固め療法開始。2日間少なくなったことは大きい。この治療の結果により今後の治療方針が決まるらしい。抗がん剤の点滴は1本を12時間かけて落とし10本で完了する。毎日指折り数えて残り本数をカウントしている。前回終了からの間隔は22日間で有った。順調に5日間を乗り切り途中でmailを出したりも出来た。 10/21日骨髄検査。

終了1週間後位から吐き気がして食事が食べれない。吐き気止めを服用するも効き目なし。匂いがするものはだめ。ゆで卵は美味い。菓子類は食べれる。大阪から岩おこしを送ってもらう。これは美味かった。残っていた頭髪も抜け頭が軽くなってしまった。15〜17日が最悪の状態、18日ファンキゾン点滴により良好となった。其れもそのはずで白血球が500→2100に上がっていた。調子が良くなるとラーメンが食べたくなる。

白血病の定義は何だろう。血液検査と、骨髄検査結果によると思うが俺はそのどの部分に当てはまったのだろうか。
9/24
NSHC合同ミーティング津和野大会の模様を菊信さんが録音して持ってきてくれる。各局の激励の言葉とか出席者全員の激励寄せ書きも頂き嬉しくて涙が止まらない。大きな励みになり、友に感謝々々である。後日写真集もCDで頂き自分も出席したような感じだった。
C 10/23〜28日(白血球3900)  4回目 5日間の地固め療法。終わってみれば早いが加療中は長い。毎日、後何本と指を折っている。
前回終了からの間隔は18日間で最短となった。11/18 骨髄検査
加療4日目で吐き気がし食べれなくなる。吐き気は29日まで続く。その後良好となるも11/5〜12日まで腹痛が続き最悪の状態になる。この時、白血球600、下痢が続きまた1週間絶食となる。18日白血球5100まで回復、 次回の加療が近い事を感じる。20日 点滴口を右から左へ変える。これは痛かった。首を右側に痛くて曲げておれない。医師も非常にやりにくかったらしく「いやー、やりにくかった」と珍しくこぼしていた。翌日、東京の女子大病院で同じ処置中誤って動脈(静脈?)を傷つけ患者が死亡したという医療ミス事故があった事をラジオで聞いた。
11/22 白血球 7000まで回復。
10/31 絶食が解禁となり食べたいと思っていたたこ焼きを食べる、電子レンジでチンだが期待したほどのおいしさはなかった。口の中が苦く味覚障害が有るようだ。11/2 菊信さんが津和野ミーティングの写真CD-ROMを持ってきてくれた。参加していない俺の分まで送って頂き恐縮すると同時にYGRの配慮に感謝する。11/7 2日間でウイルスメールを6通もらう。この部屋はクリーンルームなのにウイルスがいると婦長に進言。体調不調、何もする気になれず終日寝ている。白血球500どん底か、腹痛発熱最悪、耐える耐える。

D 精神的ダウン 気力の戦い
11/23(白血球7000)  5回目 5日間の加療開始。キロサイド5日間、イダマイシン3日間、今度の薬は腸にダメージを与えることがあるらしい。12/9 クリーンルームを出される。気分転換には良かったか?この部屋は原則として3ヶ月しか入れないとの事。 12/27 骨髄検査
4日目から腹痛、吐き気、微熱、氷枕使用。精神的にもダメージが大きい。白血球700  12/6 より絶食。微熱は12/14迄続きとどめに 15日は39,1度まで上がる。ファンキゾン点滴後1日半で平熱に戻る。18日 絶食解禁、白血球1700以後ずっと良好な状態が続き食欲も出てきて精神的にも立ち直ってきた。12/20を過ぎると病院食では足らず、自宅出前のうどん、ラーメン、どんぶりものを食べる。今日は何が出前されるかと待ちどうしくなってきた。1月に入ってからの血液検査で肝機能に異常が認められる数値が出る。これが改善されなければ次の手が打てない。ここに来てまた足止めになった。
7ヶ月目に入ると急に精神的に参ってしまい何をする気にもなれない。ただ寝ているだけ。考えていると涙だけが流れ出てくる。妻にも当り散らす。もういやだ、最後まで耐えられるか。自分がいかに精神的に弱い人間であるかを思い知らされ気力の戦いになった。何とか乗り切らねばならない。そんな時「元気を出さんか」と言われた思いをしたのがNHSC各局の寄せ書きであり、谷川さん、菊信さん、重野さん等各局のmail であった。また高木医師、看護婦の大岩さんの励ましも有り難かった。
E 最終の加療になれるか!!
50日間の準備期間!!やっと加療に入れる
01/17〜22白血球(11400) 6回目、5日間の加療開始。キロサイド、の他にラステット、も5日間。

3月1日 退院
     決定!
開始3日目より薬疹がボツボツ見られる様になった。背中がかゆい。食欲も減退し始めた。今までの副作用よりちょっとましと感じる。4日目はさらに薬疹、かゆみが進展、しかしあと1日。このまま強行突破。味覚障害、何を食べてもおいしくない。11日目、ついに食事受け付けないので点滴による栄養補給に切り替え。2週間目より微熱(37.0〜37.8)、腹痛が14日間(2/11)続き非常につらい日々となる。2/12、 昨日までの腹痛が嘘のようになくなる。
50日間の回復期間中に生えてきた頭髪、鼻ひげもまた抜けてしまった。この加療が始まって1度もひげを剃った事がない。みんな抜けてしまう。

絶食も解禁になりトンネルを抜け出した感じ。嬉しくなって菊信、谷川、重野さんにmailを出す。
12月下旬に6回目の加療が有るかと思っていたが回復に時間がかかり50日間も開いてしまった。回復はしたが肝機能が下がっており加療に踏み切れない。あれだけ薬を飲めば肝臓も悪くなるだろう。大晦日には1泊で帰る事が出来てつかの間の自宅を味わった。1/13には点滴のカテーテル(注入パイプ)が抜け点滴が出来なくなった。おかげで2日間、点滴から開放され自由の身になった。
最後の加療が終わってからの18日間は辛く、腹痛で眠れぬ日もあり最後の試練を味わった。長い入院生活であり副作用に耐えて、耐えての9ヶ月、良く頑張った。ここまでこれたのには大岩さんの存在は大きく有り難かった
彼女のおかげでここまでこれたといっても過言ではない

9月21日、津和野で開催の五所合同ミーティング参加者から
お見舞い寄せ書きの色紙をいただき、これには随分勇気付けられ
「来年の大分へはいくぞ」と副作用に耐え頑張れました。


入院中、看護婦との出会いも面白いものがあった。主任の村上さんは私と同じ健軍小学校、湖東中学との事でびっくりした。熊本の片田舎から出てきた者同士が愛知県の田舎で出会う。15歳程違うが小学校の事で思い出を共有出来る部分も有った。今度熊本へ行ったら小学校、健軍神社を隅から隅まで見てこようと思っている。彼女と熊本の話をしているとエンドレスになってしまう。もう一人の主任、中島さんは私が堺製鉄所時代住んでいた狭山ニュータウンの近畿大学付属病院に勤めていたとの事、しかも彼女の旦那は熊工出身で私の後輩にあたる。

 9ヶ月と云う長い入院期間を乗り切れたのは、無線仲間、会社の上司、同僚、家族、兄弟の励ましが有ったからこそ。妻は車で片道30分かかる道のりを1日2回通ってくれた。12月末、体調が良くなり食欲が出てくると自宅出前で、うどん、ラーメン、丼物を出前してもらった。苦しいときに元気をつけてもらったのが E-mail 、津和野ミーティングの寄せ書きであった。その中の言葉の1つに
「趣味は最大の薬」という言葉が有ったがまったくその通りだと思う。また光の南野さんからミーティング時の写真をCD−ROMで頂き何回も見直した。大分の重野さん、広畑の谷川さんからのmailを読むときはいつも涙が止まらなかった。菊信さんはYXCの窓口となり常に情報を頂き孤立することはなかった。NSHC各局に感謝の気持ち以外何物もない。一人では何も出来ず、何とも弱いもので有る事を痛感した入院生活でありました。

珍しくアジが1匹ついた 1月2日 雑煮が出ました 2月 埋め立てが進んでいる
点滴の滴下調整 トヨタ ハリアーで通勤する鎌ちゃん 一番若い伊藤さん

美人看護師さん 御世話になりました




退院 その後
退院後も元気にしております  3/18 えびせんべいの里 畑仕事 牛糞運び 3/28

3/18 高校時代の親友 茨城から清田来る 4/10 昨年5月大分の安部さんから貰ったむぎ焼酎「二階堂」を飲む 4/14 熊本時代近所のやっちゃんと50年ぶり再会

この後は信州、九州へと旅行しました。
内容はJK2AENコーナーで記載しています

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