2001年11月3日

9月25日熊本の中学校同期の山下さんなる女性からから突然電話が有り同窓会の案内を受けた。当初、出席する気持ちは無かったが、熊本に親も兄弟も、親しい友さえもいない消息不明の私をよくもまあー 探し出してくれたと感謝していた。聞けば彼女も私と同じで、親が名古屋の三菱重工から新設の熊本三菱へ転勤したとの事。さらに彼女の母親は私の母親と仲が良かったらしく私の家へよく遊びにきていたらしい。そんなことは当事者の私は知らなかった。

熊本に三菱が進出し健軍が三菱と共に発展して行った模様を「健軍三菱物語」として書きまとめた本を私の兄が出版しその本を読んだ彼女が兄に聞いて私を探し出した次第。 日が経つにつれ熊本に行ってみたい、私を探し出してくれた山下さんに感謝の意味でも出席すべきだという気持ちになってきた。そこで女房殿に同行を願い九重の紅葉見物を兼ねて出席する事にした。

考えてみれば私も八幡製鉄所から新らしく出来た堺製鉄所に転勤となった。当時連日転勤者が八幡から大阪堺へ寝台車で赴任し新聞には「民族の大移動」と報じられた。私の場合は独身で有ったが親子2代にわたって同じような事をしてきた。なお、クラスの女子出席者6名のうち2名が同じ境遇の人であった。中学時代はそんなことは知らず興味もなかった。今思えばもっと仲良くしておけば良かったと思う。
園田君と 共に親が名古屋の三菱からの転勤者 豆腐屋の美沙代ちゃん 美沙代ちゃんとツーショット
2001年11月 熊本市内で還暦同窓会 60歳


会場受付に親しかった魚つきの名人園田君がおり感激の再会。クラスの出席者は男4名、女6名、中学生当時は女子生徒と喋った記憶もなく共通の思い出はない。名前は覚えているが45年も経てば顔も判らない。女子は浦安、神奈川、奈良、大阪と他府県から4名に対し熊本が2名の出席者であった。 

クラスは違ったが家が隣の「豆腐屋の美佐代ちゃん」に40年ぶりくらいに逢うことが出来た。彼女は女性では唯一思い出を共有できる人である。会場がホテルでなく宿泊も出来ず45年振りの再会の場がたった3時間とは、この与えられた時間内に全く言葉を混じ合わさなかった人もいた。

 無線クラブの合同ミーティングでは延々と続く2次会を乗りきるには酒の強さと体力勝負で有った。そんなスタイルの会合が染み込んでいる私には今回のような会場でやることにはいささか時間が足らなかった。 2次会に行ったかどうか、トイレに行っている間に解らなくなってしまった。

仕方なくホテルに戻ると「あれーもう帰ったの」と言われてしまう始末。女房とワインをのみ近くの居酒屋に出かけ飲み直し。40数年振りの同級生と飲まず毎日、顔を突き合わしている女房と2次会とは。 

翌日「美佐代ちゃん」とその弟に子供の頃泳ぎに行った浮島神社、江津湖に連れていってもらった。 「この辺の木から飛び込んだ」 「この辺に桟橋がありそこから飛び込んだ」「さいとう橋では足から飛び込んだ」と彼女や弟が云ったが全く通りであった。
「なつかしか−」と云う彼女の言葉に全く同感で子供の頃がよみがえってきた。
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