2008年
伊吹山お花畑
7月25日山さんに伊吹山のお花畑に連れて行ってもらいました。今まで山は良く登ったがお花畑は見たことが有りませんでした。最初の北アルプス表銀座は夏に登りましたが3日間雨ばかりでうんざり!!
その後会社の山岳部に入部してからはほとんど春か冬の登山となりました。したがって花を見る機会がありませんでした。今回初めて自然の花群をみて夏はこんなに咲いているのかと感心した次第です。
これからはこんな山登り、散策をしたいと思ったしだいです。 山さん有難う。



ぞろぞろゆっくり歩く

頂上売店の運搬車

傘と帽子は必需品。陰が有りません。

シモツケソウ、これが群落

暑いがさわやか

拡大でアサギマダラが見えます

いたる所シモツケソウの群落

夏の雲も気持ちが良い

足元に駐車場、歩く距離が短い

白い花がシシウド

シモツケソウ これが一番多く咲いている

下山途中振り返って頂上を見る

東屋を借用してそうめんを食べました

車は日陰に置く事が出来ます

冷たい御神水で冷やしたそうめんは格別

赤いじゅうたんの上で気分爽快

日本名水百選に選ばれた泉神社の湧水

大人数の人が簡単に汲めます。

涼を求めて五色の滝へ

ここは涼しいが来るまでに汗をかく

日が差して美しい


  塩つくり体験
団地内老人クラブの行事として町の観光施設「食と健康の館」で塩つくり体験を行いました。
「食と健康の館」は2005年4月に美浜町小野浦海岸にオープンした「自然との共生」・「食と健康」に関する情報発信をテーマとする新しい体験型観光・製塩施設です。
今回は「地元の事を知ろう」という事でこの施設での塩つくり体験を行うことになりました。美浜町の北端から南端への移動でマイカーに分乗して15分くらいの距離です。
「食と健康の館」へ初めて行った人もあり好評の体験ツアーでした。
 
「食と健康の館」全景 美浜町小野浦海岸に有り伊勢湾の向こうには津、松阪市が望めます。目の前は中部国際空港への離着機のコースです。 流下式枝条架塩田設備。 この方式が採用されたのは道路から目立つ、場所を大きくとらない。海水を上から流し塩分濃度18%〜20%のかん水を作ります。

 

緑苑クラブ会長さんの挨拶からはじまり。
「緑苑クラブ様」のポスターも有りました。

「食と健康の館」の開設までのいきさつ、近況、塩つくりの歴史について説明(近藤さん)

塩つくりの体験前に周辺の説明。丁度着陸態勢にに入っている飛行機が通る。

知多半島ケーブルネットワークから撮影に来ました。翌日ケーブルテレビで放映。

枝条架施設で出来たかん水を約4時間煮詰めて塩を作ります。

体験の方も塩が出来ました。液体がにがりです。布でこしてにがりを除去します。


皆さん真剣に取り組んでいます。

出来上がりました。

にがりをこして乾燥させれば出来上がり。

体験後のインタビュー。「いい体験をさせてもらいました、会長さんの企画に感謝です。」

「音吉」を葬ってあるお寺です。地元民なら知っておかねばならない歴史です。

14名の船乗りのお墓です。この中に音吉が含まれています。

          


  椎茸栽培に挑戦

初めて椎茸栽培に挑戦、園芸店などで菌を打ち込んだ原木は見たことが有りましたが原木から自分で切り出して菌を植え付けてみようとコナラ(だと思う)の原木を切り出す。全部で12本切り出す。
これを運び出すのに重たくて徒歩で6回に分けて搬送。
菌は500個入りを購入。これが最小単位でした。ドリルで500個の穴をあけダボ打ち込み完了。問題はこれを何処におくか。とりあえず庭において置いたが誰かにアドバイスを貰ったらその時点で考える事にしよう。


原木の切り出し

電ドルで穴あけ

庭に置きました






   山岳部の集い (2008年1月19日 堺市三国ヶ丘)

1965年から1985年まで20年間堺製鉄所勤務をました。年齢的にも一番変化の多いときで楽しい期間でも有りました。寮の隣室である竹ちゃん、野間ちゃんと好きな山登りをしていましたが八幡製鐵所山岳部の曽我、寺町さんが転勤されてきて山岳部を立ち上げられました。そこへ我々3人も入部し以後は山岳部の活動として登山をしました。山岳部の基本山行は冬、春の合宿でしたがそれに加え個人山行が頻繁に行われました。
1976年、「創部10周年記念海外遠征」としてアラスカ、Mt,Hayesに挑む事になりましたがこの山行は貴重な体験となり今でも大きな心の財産となっています。

1985年に名古屋へ転勤し大きな登山は止めてしまいましたが個人山行として「春の御岳」は今でも続いています。 1988年9月、堺の山岳部が穂高、奥又白で合宿すると言うので半年以上も前からランニング等、トレーニングに励んで参加しましたが結果は無残でもう「穂高クラスの山は登れない」、事を思い知らされました。
御岳登山はその後アマチュア無線クラブの定例行事として続けていますが2002年、堺の昔の仲間に声をかけ4名の参加者を得て登りました。御岳から帰って私の悪夢の「9ヶ月入院生活」が始まりもう「昔の仲間とは逢えないかもしれないなー」と思ったりしておりました。それだけに今回の「山岳部の集い」には思い入れも大きく健康な身体で出席できた事をうれしく思い感謝しています。企画して頂いた曽我さんには本当に感謝しています。20数年振りの再会でいささか飲みすぎてしまい2次会では7割は記憶が飛んでしまいました。皆さんに迷惑をかけたかも知れません。20数年ぶりの再会にはあまりにも時間が短すぎました。次にやる時は宿泊を伴った集いをやりたいものです。
堺山岳部の活動記録は「山靴」として3号まで発刊されました。私の青春の記録として大切に保管しています。
またアラスカ遠征から30数年、当時を思い起こす為に丸岡隊長の言葉を読み返してみます。


                  Mt・Hayes 違征によせて   (1976.10)

丸 岡 邦 彦

 出発直前になって遠征隊長をやれと言われ、いささか荷が勝ちすぎ辞退したのであるが、この期におよんでいつまでも態度を保留するのも隊のためよくないと考え、あえて承諾した。 今回の遠征は部創立10周年を記念した初めての海外遠征であったが、職域の山岳会として又我々の部としての成果は大きなものがあり成功といってもよいと思う。

 目標はヘイズ北峰であったが、ルート変更を余儀なくされ、南峰に登頂後、登山活動は終えているが天候に対する知識、アラスカの山に対する知識がもう少し深ければ現在の力からして北峰も決して夢ではなかったと思う。海外遠征を成功させるには事前の準備が大きな比重をしめ、その意味からして庶務の仕事ぶりは初体験にもかかわらず立派なもので、頭の下る思いであった。 又食糧の調達は90%現地でやり、数時間のショッピングで国内山行と比較にならぬ物を安価に入手出来た。海外遠征でこれから注意しなくてはならぬ事は、完全に現地の人の手にまかせねばならぬ工程がある場合、よほどの研究と余裕(日程的)が必要である。

 最後に、南峰に立った4名を除く他の隊員は、今回の山行において仕事不足の感をぬぐえなかったと思う。アクツク隊を出してからのB・Cは時間をもてあまし気味であったが、不満の意をも表さず協力していただき感謝している。


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宴会前、前に居たお二人。みんな若かった。

撮影者と撮影準備中の竹ちゃんが居ないだけ

対面の室ちゃん、


初芝寮で隣同士の部屋だった竹ちゃん、野間ちゃん。良く一緒に登りました。この頃は駒ヶ岳ロープウエーはまだ有りませんでした

昔の写真

1969年1月11日〜17日 鹿島槍、赤岩尾根冬山合宿、

1974年4月23日〜5月1日 槍、穂高合宿。
北鎌尾根隊と涸沢隊2パーティ。

1972年 剣、立山合宿。女性2名含む総勢14名。

1899年9月10日〜14日 奥又白合宿雨ばかりで飲みに行った様なものでしたが下山の日にようやく晴れました。


1976年6月10日〜7月10日 アラスカ Mt.Hayes ベースキャンプにて

ベースキャンプとアタック隊の交信





昔と変らぬヘアースタイル、丸さん

こんな感じのテーブルでした。

若い竹さん、手前も竹さん、頭髪だけは違い歴然。

良く一緒に山に行った竹ちゃん

体型が変らない元「蝶少年」

この二人は2002年一緒に御岳に登った。

変らない御大。合宿では御大の話を聞くのが楽しみでした。

記憶に御座いません。蝶少年だった彼も普通のおじさんに。

アラスカ遠征時19歳だった、彼のザックはヘリコプターから落下。アラスカのゴミとなった。

二次会はスナックで、御大カウンターに入る

悦ちゃん、今や成人した子供がいる

ここら辺は記憶になし


               



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